山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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頭顱と面部の表情(貴方の最初の漢字教材・甲骨文)


この彩陶は中国最初の女神像は、1983年に遼寧省朝晹市の牛河粱遺跡から出土した。牛河粱遺跡は新石器時代の紅山文化時代に属し、この時期の遼西はまだ母系氏族社会で、人々は部落の中に始祖の女神の祠廟を立て、自身の女系始祖を祭祀した。女性祠廟の主要建築物は、南北18メートル、東西7メートル近く、祠廟内に祭られた本氏族の保護神は全て女性である。この遺跡は外的干渉がなかったので、神廟が倒壊して塑像が破砕していたにもかかわらず、考古学者達は残骸を復元して、完全な神像を復元することをできた。

この写真を初めてみた人は、その表情に引き込まれてしまう。この女神は各種の陶器片や、銅の鏃と戦車の装甲板に混じって発言された。女神の頭部と等身大であり、顔面は朱色に塗られている。彼女の両目は青いヒスイが嵌められており、眼光は炯々として生き生きして、今にも話しそうである。この面相は我々中国人が見ることのできる最古の祖先であり、彼女は5千年以上前に生まれ、遥かな時空を超えて子孫か面会した。

現代中国語の「面」    は、甲骨文中では二重の意味があり、第一に、「顔面」であり、第二には有る方向に「対面(向く)」ということである。「面」    は「顔の前の部分である。頁に従い、人面の形を象る」〜許慎の「面」   の定義は、2,000年前の後漢時代のもので、「面」字は人の両目、鼻、口に額を加えたもので、全て「眼前」に揃っている完全な人面である。

許慎の『説文解字』には、「臉」字の収録がないので、この字は後漢以後に生まれたものである。「臉」字は後世の北方の言葉で、現代人はよく「人を打って臉を打たず」と言い、また厨房に掛けてある豚の頭の焼き豚を「扒猪臉(ジュパレン)」と言う。ここで言う「臉」とは、頬を指し、一般に「腮帮子(サイバンズ、頬っぺた)」という。宋代の『韵会』の定義は「臉は、目の下、頬の上なり」である。また「臉」字が出現したばかりの頃は、目を含んでいなかった。

『説文解字』の1,000年余り前の甲骨文では、「面」   、  字は「目」を中心として発展してきた。これは指事文字であり、字形は「目」   の周囲に指事的な枠囲い    を加えて顔の輪郭を表し、また向いている方向を表している。篆書の「面」   は甲骨文の「目」   を 「首」   と書き、顔が頭部にあることを強調している。隷書は「首」   と「目」   を混合、凝縮して「面」   と書いている。

甲骨文「面」字は人面を指しており、その四周は、上は眉毛より下、下は下顎より上、左向きで目鼻があり、右は耳より前の部分である。これは『韵会』に載せる「臉」に定義する「目より下頬より上」の範囲よりも、その上限は眉毛に達しているので、やや大きい。しかしそれでも、側面であり、その面積は後漢の「面」字の定義する鼻と口を除いた範囲の半分である。

甲骨文の「面」字は方向を形容し、特定な方向を表している。方向を観察する主体が目であり得ない参照物は王宮建築の壁「面」である。建築物から言えば、六「面」を共有することは人面と同じであり、建築にも明確な周囲があり、上は屋根、四周は壁、下は地面であり、これを「六合」という。そして甲骨文の卜辞では「面」字の多くは東西南北四面に加え、東北、東南、西北、西南の四方向を加えて、「四面八方(あちこち)」という。明清の北京の故宮のように、殷商時代の宮殿も南面北坐の四合院であり、院牆(塀囲い)を各方向を占める「面」として、東向きを「東面」、南向きを「南面」、西向きを「西面」、北向きを「北面」と言い、方向表示とした。例えば甲骨の卜辞には「王占いて曰く。祟リ有らんか。八人庚戌に各雲(変わった雲)東面自(よ)り来ること有り。」と記載されている。

來自の「自」は始めは「鼻」の意味であり、初期の甲骨文「自」   は、鼻筋と鼻の穴を鼻の形状を生き生きと含んでいる。晩期の甲骨文「自」   は鼻骨と小鼻の膨らみを強調している。金文の「自」   は両側の小鼻    を続けて    と書いている。篆書の「自」   は金文の字形を継続している。隷書「自」と楷書の「自」は完全に鼻の形を消失している。後にこの「自」は自分のこと、つまり「我」を表した。人は自己紹介をする時に、よく右手の人差し指を、自分の鼻に向けて指指した。

「自」称に仮借してから「自分」と「鼻」を区別するために「畀」を加えて「鼻」字を作った。「畀」字の上部「田」は鼻孔を表し、下部の「丌」は両手「双」艸の合略字であり、つかむ、持つ、つかむ事を表す。つまり「畀」は手を伸ばして鼻をつまむ動作である。

「自」の下部に「心」を加えた「息」字は、呼吸の息を表し、当然鼻と関係があり、本人と関係もある。(熟語の)「心心相印、息息相関(一つに繋がる)」は、「自」「我」の二文字がないが、十分に人類の自主意識を表す。

自主意識とは何ぞや。計り知れない昔、人類は莽荒(原荒)の時代には、天帝の庇護が必要であった。しかし人類は成長を遂げ、遂には当初想像もできなかったところまで次第に成長した。彼らは山を見ては山の向こうに何があるのかを知り、海を見ては海の海の向こうに何があるのかを知り、空を見ては空の上に何があるのかを知り、それが彼らの欲する知識であった。一旦知識が有れば、大禹が治水をしたように天地と戦争をした壮挙を完成したようにできるかもしれない。この世界の最高の場所に立てば、更に遠くへ行く資格があり、多くの事情を経て多くの真理を解き、多くの経験を体得し更に前進する。人間は成長すると自我意識を持つ。もはや天帝の庇護も必要とせず、更に閻魔様に拷問されて死ぬことも望まない。老子は「天地は不仁なり、万物を以て芻狗と為す。」という。意味は、大自然は頼りなく、人への愛もなく、天帝から見れば、この世のあらゆるものの地位は祭礼用のワラで作った狗や豚の偽物と同様の価値しかないということ。ワライヌは燃えやされ灰となるかな人類も草藁と同様に各種の災難の切磋に見舞われ十分耐えてきた。彼らには自分を守り自分の命運を決定する能力があった。だから「人」はこの世で最高の文字であり、最も力のある文字である。

自我意識が増強したために、自と鼻の地位も高まったので、「鼻祖」という言葉は、後に一領域で人類に対して巨大な貢献を創始した人を指すようになった。清代の旅行家王韜が海外での見聞を紹介した『甕余談・西国造紙法』に、「人は蔡倫を以て造紙の鼻祖とせざるはなし。」という。だがなぜ創始者を「鼻祖」には開始する、最初という意味があった。後漢の柳雄の『方言・第十三』に、「鼻、始めなり。」明代の張自烈の『政治通・鼻部』に、「人の胚胎は、鼻がまず形を受く、故に始祖を鼻祖と謂う。」清末の秋瑾の「黄帝紀元大事表」でも、「黄帝は、漢族の鼻祖なり。」という。このため、人々は新婚夫妻の第一子を「始子」「鼻子」と呼び、また各業種、各民族の最初の創始者を「鼻祖」という。

「自慢するばっかりに嫌われる文字はな〜んでだ」という文字なぞなぞがあるが、その答えは「臭」である。甲骨文の「臭」   、   は、鼻「自」   と猟「犬」の会意文字である。造字本義は、狗は敏感な鼻で臭いを識別するので「嗅覺」を表す。『説文解字』に、臭は、禽走して臭いて其の迹を知る者は犬なり(捕獲する禽獣が逃走する時、鼻で臭いを嗅いで追迹できるのは猟犬だけである。」古代人は夙に犬の鼻が敏感で臭いを嗅ぎ分ける脳力があり、臭いと鼻は関係していることを発見していたので、「臭」字は鼻を表す「自」を主要な部首として必要しているのである。「臭」の本義は臭いを嗅ぐ(聞く)ことであったが、後に好ましくない臭いを指すようになり、嫌な臭いを指すようになった。そして「臭」の「犬が臭いを聞き分ける」の本義が消失してから「香気臭気」の「臭」専用字となった。その後篆書にはこの字の横に「口」を加えて「嗅」字を別造字し、臭いを嗅ぐ専用字となった。

「鼻」を部首とする文字も興味深い。劓(ケイ)は「鼻」に従い刀「刂」に従い、犯罪者の鼻をナイフで切り落とす、中国古代の一種の刑罰である。鼾(カン、いびき)は、睡眠時のグーグーと鼻から出る荒い吐息である。齁(コ、げえ)は、料理に塩分が多く塩辛い時に、鼻から、口、喉にかけ不快な事、齉(ノウ)は、『現代漢語字典』でも筆画の多い文字で、意味は風で鼻が、「ぐずぐず」として通らないこと。

古代人が使った猛威的な歯を持った青銅の戈「我」は一人称「自分」の呼称にも使われる一方で、顔の中央の高い鼻「自」も本人の呼称として自身を高め、敵人を打撃した。鼻より下にある鬚「而」を使って相手を呼ぶ二人称とするのは、明らかに軽視する態度である。身体の一番下の脚先「之」を、第三者の「彼」や「彼ら」の呼称として使うのは侮蔑の意味を含んである。最後に虫、蛇を表す形の「它」は広く人間以外の事物を表すことに使うのも赤裸に侮蔑(ぶべつ)の表れである。

「而」の甲骨文   、   は象形文字であり、成年男子の下あご    に密生する長いひげ    を象る。金文の「而」   は唇の上下にある二列の被下であり、篆書の「而」   は金文の字形を継続している。隷書の「而」   は上下二列のひげを続けて書いている。口とあごのひげ「而」を二人称に借用してから、甲骨文では新字の「須」   を作って代替した。

「須」の甲骨文    は    「人」の長両頬と下あご「頷」   に生える人毛「彡」   を指した。ある甲骨文「須」   は「人」   を側面に置いて、下あごと口上の人毛    を分けている。金文「須」   は「面」   を甲骨文の下あご    の形に変え、「須」は顔面にある人毛を表している。ある金文「須」   は「頁」   と「彡」   の会意文字となった。古代人は自生する人毛を大切にしたため、両頬と口あごにごつく密集するひげは男性の象徴となった。ジンギスカンがモンゴルを統一してから、一隊400人のキャラバンを中央アジアのホラズム・シャー朝と通商するために西方へ派遣した。図らずも荷物はその国の辺境護衛兵によって掠奪され、キャラバンは全員殺された。チンギス・ハーンは交渉のために特使を派遣したが、使者はホラズムの国王に鬚と頭髪を丸剃りにされ狼狽して帰ってきた。この一件をチンギス・ハーンはこの上ない恥辱として、モンゴルの騎馬兵団の大規模西方遠征を引き起こした。以後の数十年間で、モンゴル人は三度の西方遠征を進行したので、中央アジア、東ヨーロッパはそれ以来死体だらけの荒野に血の川が流れた。

篆書「耐」   の本義には、ひげ「而」   と頭髪「彡」   が含まれている。篆書の異体字「耐」    は手「又」でひげ「而」   をつかんで剃ることを表す。隷書の「耐」は篆書の「而」   を「而」と書いている。古代の刑罰として、数本のひげを抜き去ることは頭髪全部を丸めることよりやや軽かった。『説文解字』に「耐(耏)」は、罪を髡に至らざるなり。」という。「髡(コン)」は丸坊主にすることで、屈辱的な刑罰である。

「須」はまた「鬚」とも書き、「須」と「頭髪」に共通する、頭部にゆっくり伸びてくる特徴を強調していている。このように毛髪が短いものから長くなる過程が「冉(髯、ゼン)」である。甲骨文の「冉」  、   は両頬から垂れさがる人毛である。金文の「冉」    、篆書の「冉」   は甲骨文の字形を継承している。隷書の「冉」   には人毛を加えて「髯」と書き、「冉」には縦画が加えられ、毛髪の象徴が完全に失われている。「冉」は動詞として「冉冉升起(ゆっくり昇る)」を指すようになってから、ひげの本義は新造された「髯」字に変わった。

人には眼、耳、鼻、舌、皮膚という五種の感覚器官があり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感がある。後漢の中でも視覚は最も便利で、一目瞭然というように直接的に使用される。健康的で視力が正常な人は、何か変わったことがないかと、高い所から遠望することができる。しかし聴覚はそうはいかない。現代人は天体望遠鏡を使って大空を観察し、ほぼ全ての宇宙を見ることができるが、しかし深海ではあらゆる科学探索方法でも歯が立たない場所である。ただ海底ソナーを使って、人類は数十キロ以内の音声を聞き取ることができるだけである。これは聴覚は多くの干渉を受け、はっきりせず、若し聞き取るためには、全神経を集中し更に努力しなければいけない。しかも信号を聞いてから、更に分析を加えて心中の記憶と組み合わせ、配列と、分類、判断を進める必要がある。そこで聴覚の鋭敏で叡智的な感覚を加えている。古代人は誰が聡明であるかについて、耳が早く目を後にした「耳目聡明」と言っている。

耳は人間の聴覚器官であり、甲骨文の「耳」    は人類の聴覚器官の辺縁をキノコの形のように取り出した様子である。金文「耳」    は甲骨文の外縁の短い指事記号を明確に「十」に改めて書いている。つまり「又」を変形した書き方であり、別人の耳たぶをつかんで切り落とすことを表す。つまり「耳」   はその実「取」   の本字である。

兵士が殺した敵の耳たぶを切り落とす動作が「取」である。甲骨文の「取」  、字形がイチョウの葉    にちょっと似ていて、また斧のようでもあるが、実際はそういうものではなく、血の滴るたぶが手   、    につかまれている場面なのである。古代の戦場では、大戦が終わるたびに兵士が切り落とした敵の耳たぶの数を統計して論功行賞の根拠とした。『説文解字』に、取は、捕取するなり。又に従い耳に従う(又と耳の会意文字である)。

敵に勝利した後に、敵の左耳を切り落として司令官の天幕に行って報告することを「馘(聝)」(かく)という。『説文解字』に、聝は、軍戦に耳を断つなり。『司馬法』に、「聝を載献進める。」という。意味は、戦後の軍功行賞の式典で、敵の捕虜の左耳を切り落として、祭壇に供え神霊に奉ること。当時を思い起こせば、兵衞の門の軍神の祠の前に血の滴る耳たぶがうず高く積まれて、勝者がその下で勝利の酒肴に酔っていた時に、敗者はどれだけ肝を冷やしたことであろう。捕虜の耳を切り落とすことを「生取り」という。古代の戦争では「殺取り」もあった。秦軍は戦場で敵人の頭を切り落とし持ち帰り戦功を請求した。歴史的には「秦人は首功を重んじる」「敵の一首を斬れば、爵一級を賜う」と言い、切り落とした首が多いほど、軍人の階級は高くなった。そのため敵の首を「首級」という。しかし、首だけで2キログラムもあり、かさ張ったので、携帯に不便であった。そのため歩兵のような重要でない敵人については、敵人の左耳を切取り証拠とすることが許された。秦国の戦士は腰に縄を着け、耳たぶを通して得意となって凱旋した。このようにして異体の「聝」字の部首は首から耳となった。なぜ敵の左耳を取ったのかは、一つには不正を防ぐためであり、二つには逃走兵の右耳となった。なぜ敵の左耳を取ったのかは、一つには不正を防ぐためであり、二つには逃走兵の右耳と区別するためである。古代の軍法を根拠に、両軍が交戦する時、全軍は前進するのみであり後退を許されなかった。もし前線の兵士が逃走すれば、自陣の崩壊を防ぐために、後続の兵士に逃走すればの右耳を切り落として徴罰とする権利があった。兵脱して右耳を失うことは生命を失うに等しかった。もし勇気を奮って敵の首を取り罪を償わなければ、非常に残酷な刑罰が待つことになる。このため敵を殺して戦功を数えるには右耳は計算に入れなかった。

1241年、モンゴル軍はポーランドのレグニツァに進攻した(ワールシュタットの戦い)。ポーランド人とゲルマン人は早速連合軍を結成してレグニツァに駆け付けて敵の攻撃に抵抗した。だが彼らが遭遇したのは実力超強なモンゴルの鉄騎部隊であった。彼らは一日に数百里も移動する騎兵だけではなく、初めて大量の火薬武器を戦場に投入した。この残酷な戦役に対して、ポーランド人には生々しい記録がある。それはこのように記録されている。「敵人は魔法を使って雷鳴を放ち、硫黄の悪臭を放つ煙幕を使った。彼らの騎兵は神出鬼没であり、我々はすぐさま包囲され、四方八方から雨のような無情の鋭い矢を撃ち込まれた。殺戮の後に、凶暴な敵人は撃ち殺した兵士の左耳を削ぎ取り、死者の人数を数えた。切り落とした耳たぶは、大きい南京袋9個分にもなった。」この戦いの後、この東方から来た軍隊はダッタン人と呼ばれた。ダッタンはタタール人」の音訳であり、意味は「地獄からの使者」である。ダッタンの軍隊は東欧を2年間蹂躙して、5,100万人いたヨーロッパ人を3,600万人を下回るほどまで殺戮して、ようやく軍隊を東方の故郷に還した。

「最」の本義は「極」であり、「主要」「ちょうど」「究める」「頂点」などの意味がある。しかし細かく考えれば、どの解釈にしても、後から新記録を達成するという意味があるようだ。近代オリンピックのモットーは「より速く(Citius)、より高く(Altius)、より強く(Fortius)」であり、全ての世界では記録は、最速のランナー、最高最遠の跳躍、相手に打ち勝つ強者が打ち勝ち立てられる。新記録が生まれるまでは、記録保持者が天下一の強者なのである。新参の選手が後続の上に立つためには、競技場で彼を打ち負かさなければいけないのである。こうしてみれば、この「最」字の来歴は「反発して取る」である。「最」の上には「冒」の上部があり、下には「取」字があり、つまり全てを投げ出し、どんな苦労も厭わず、優勝を足らずに帰ることがなかった。このため古代の軍隊で軍功を考察する時、初めの軍功を「最」としたのである。

拡大解釈すれば、天上で最強のものを「神」と称し、地上最強を「聖」と言った。古代人は天界で風雨雷電を掌握する帝王を「神」と称し、地上で全知全能で天の神匹敵する人物を「聖」と称した。「耳の聡明」を表す甲骨文は「聖」と書く。

甲骨文「聖」は耳の大きな人のようです。早耳で知恵のある部落長や神通力の大きな占い師を表し、よく予見して経験から未来を予言する。狩猟活動に従事する時、聴力の良いリーダーは野獣の動きをいち早く察知し、民衆に食肉を獲得し、危機を遠ざける。長距離の移動では、耳の良い占い師は神霊の啓示を聞き取り、みんなに貴重な水源を見つけ出し、水と草の豊かな土地へ導いた。古代の「古えの大事は、只だ祀りと戎(いくさ)のみ」の時代に、およそ福耳で賢明な人は、多くのチャンスで原始部落のリーダーに選ばれた。そこでこの「聖」字もリーダーにあやかって、聴覚というものの意味から次第に離れて、「大いなる知恵がある」掲揚となり、最終的には道徳が高尚であり、無疵の性質で叡智神武の傑人を表すようになり、偉大で、天帝と同列として論じられるようになった。その後福耳の「聖」の字は天上に上がり偉大で神聖な文字となり、祭典供養の神壇に登った。(一方)大きな目の「望」字は現実世界に留まり、一般民衆と日々を過ごして、日常生活とは離れられない文字となった。

初期の甲骨文「聽(聴)」  は片「耳」   を二つの口「吕」   の間に置き衆人の発言に耳を傾けているように見える。後期の甲骨文「聽」   は一口    一耳     に簡略化している。金文の「聽」    は甲骨文の字体を継承して、   と    と     の構築している。小篆の「聽」   、隷書の    は金文の字形を継承している。造字の本義は、耳をそばだて、他人の発言を聞く事。

甲骨文の「聯」  、   は「耳」   、  と「糸」の構成である。造字の本義は、両耳に掛けられた耳飾りである。大篆「聯」    は甲骨文の「糸」   を「絲」   に変え、耳朶の両側に掛けられた首飾りを象り双方が連なっていることに強調している。篆書の「聯」   は基本的に大篆の字形を継承しているが、構造はやや調整して「耳」   の部分を突出している。隷化後の楷書   は篆書の字形を継承して、   と    との構成である。楷書    も篆書の字形を継承して、   と    の構成である。


甲骨文「聞」の主体は「」であり、跪いた人であり、片手で自分の片耳を塞ぎ、同時にもう一つの耳を露出し、雑音を遮り、特定方向の音声を聞き取るに集中していることを象る。金文の「聞」は手を振いながら話をしており、「口」上の三点の指事記号は、発生をした音声を象る。「」は声に耳を傾けることを表す。篆書の「聞」では新たに会意と形声文字を形声し、「門」と「耳」との構成で、戸口の傍に立って、門外の動静を細かく探ること。

古代人は聴覚が鋭敏なことを「聰(聡)」という、聴くことが鈍いことを「聵」、完全に聴力を失っていることを「聾」と言った。

「悤」   は心に窓があるように、心眼が明瞭で話が分かることである。金文の「聰」は「耳」朶(聴く)と「悤」との構成で、造字の本義は、広く耳を傾け聞き分け理解することである。

「貴」は音符である意符でもあり、「匱」の省略した書き方であり、「欠乏」する意味を表す。篆書の「聵」は「耳」と「貴」との構成であり、造字の本義は、「老化して目がかすみ耳弱り、聴力が悪くなること」である。

「龍」は音符であり意符でもあり、聴覚が遅鈍な大蛇である。甲骨文の「聾」は「耳」と「龍」の構成である。造字の本義は、蛇の聴覚は遅鈍であり、対外的な音声には感覚がない。

「職」の金文     の「戠(識)」    表記を表し、耳    は聴力を表す。篆書の「職」   、楷書の    は甲骨文字形を継承している。造字の本義は古代の一般役人が民意を聞き取り記録すること。

「卯」は音符であり意符でもあり、連接を表す。篆書の「聊」は「耳」と「卯」との構成である。造字の本義は、古代人は夜間にすることがなく、百に聊かも頼る無き(手持無沙汰)な時に、話を交わし、あれこれ話を聞いた。

「恥」の金文「」は「耳」と「心」の構成であり、造字の本義は、批判を耳にして、内心恥じ入ること。古代人にしてみれば、耳たぶと良心は、是非を分別する敏感な器官であった。『康熙字典』の「耻(恥)」に対する解釈は、「心と耳に従う会意、凡そ人心慚ずれば則ち耳熱面赤するはこれ其の験しなり。」意味は、人間は恥を知っているもので、ひとたび間違えば、心拍が早くなり、顔や耳が赤くなる。昔から道徳のある人々は「恥を知る」ことは修身の基本であった。清初の思想家顧炎武は、「悪衣悪職を羞じずして、匹夫匹婦の其の沢(めぐみ)を被らざるを羞じる。」と言っている。これは官吏は自身がぼろを着て粗末な食事をすることを恥とせずに、百姓が自分の恩恵にあずかれないことが恥じるべきであると言っている。


首は元々「動物の頭」を指し、甲骨文の「首」は、毛を帯び、目や長い口を持つ羊頭あるいは鹿頭を象る。初期の金文「首」は長い鼻を消去し、「首」の特徴である。獣頭の特徴を略して、人類の眉毛と目を強調している。造字の本義は、あらゆる動物の頭部が「首」である。

「豆」は、品物を盛り付ける丸いドラム状の高杯の陶器である。金文の「頭」の左側の「豆」は音符として借用された文字で、「豆」と「頁」の構成は、脳みそを収容する組織である頭蓋骨、中国語の「脳袋瓜子」を比喩している。

甲骨文「脳」は頭髪「巛」と小人「儿」、頭「囟」の構成である。楷書の「腦(脳)」は甲骨文の「儿」を省略し、同時に肉体を表す「月」偏を加えて、「脳」が活性している人体機関であることを強調している。簡体字の「脑」は更に頭髪の形状「巛」を省略し、また「囟」の蓋を取り去り「凶」字と書いている。「能」の造字の本義は、人間の頭部で、神経が集中し思考する期間が集中する場所であり、人の意識、思考、記憶の中心である。脳と関連する慣用句には「絞尽脳汁(知恵を絞る)」「揺頭晃脳(独りよがり)」などがある。

「皃」は「貌」の本字であり、「面貌」は顔面の表情を含めた全体的な感覚を表す。甲骨文の「皃」   の上部の「白」

 は「冒」の省略した書き方で、「帽子」「着けること」を表す。下部の「人」   は、衣服を付け帽子をかぶる姿を現す。金文「皃」    は甲骨文の字形を継承している。小篆「皃」   は甲骨文字形を継承し、   と    との構成である。大篆「貌」   は「豸」    は野獣を表し、「頁(皃)」   との構成で、広く人間と動物の各種の形体を表す。造字の本義は、装飾した外形や、面貌の様子である。篆書の「貌」   は「頁(頭部)」を「皃」に変え、動物と面容の形象と様子を強調している。隷書の「貌」    は金文の字形を継承している。

「頁」は最初は頭部を表していた。金文で「頭」字ができてから、「頁」は人面の表情を強調するように変わった。古代漢語で「頁」を部首として用いる漢字は、「面」と「首」を偏旁とする漢字よりも多い。「頁」と構成する文字は「頭」と関係するものが多い。「碩」は大きな頭、「頂」は頭頂部、「頜(カン、おとがい)」は下顎、「頦(カイ、おとがい)」も首から、口から下の部分、「項(コウ、うなじ)」は首の後ろがわ。「顔」は顔面の正面であり、人が立腹すると、「この顔色を見ろ」と顔面を赤くして憤るのである。

甲骨文「頁」  が描くのは「人」の頭部「首」で、正面、側面両方向を含む。「頁」の上部は「頭部」を象り、真ん中に目があり、てっぺんに毛が三本あり、その下は左を向いて膝まずく「人」神である。金文「頁」   は基本的に甲骨文の字形を継承し、篆書「頁」   では金文字形の毛髪の様子が省略されている。隷書の「頁」は篆書の「人」を二点「ハ」に書いている。『説文解字』に、頁は、頭なり。「」に従い儿に従い。頁の本義は「頭」であり、現在の「本の一頁(ページ)」の「頁」   字は、同音の仮借文字であり、本字とは無関係である。

「彥」は音符であり意符であり、古代人が崖や岩に残した歴史、文化経験を朱色の文字と図案の記録を表す。金文「顔」   は「彥」    と「頁」   との構成で、若い人のピンクの顔色を表す。造字の本義は、女性の赤い唇と黛の面相である。篆書の「顔」    は 「彥」   と「頁」

 で構成された会意文字である。『説文解字』に、顔は、眉目の間なり。隷書の「顔」    、楷書の   は金文の字形を継承している。

眉目の間には「題」というキーポイントがある。金文「題」の「是」は、中心位置を表し、「頁」はは額を表す。造字の本義は、額の中心である。『楚辞・招魂』に、南蛮(中国南方)の人は「雕題黒歯」と言い、これは額に符号を刺青し、歯を檳榔子(ビンロウシ)で黒く染色することである。「題」は額の真中の眉の間であるので、ここに文字を書くことは「画龍点睛」の作用があり、題詞、題名、題詩、題字(という言葉)がある。李白は『韓荊州ヘ与える書』で、ある韓という荊州太守が成年人材の「一たび品題「品定め)を経て、便ち佳士を作す」ひとを抜擢することを好んだ。題字は、例えば題目、主題、題(テーマ)に合わない文章というように、本文の前に示される短い文章の意味を派生している。出来の悪い文章を書くと、「下筆千言すれども題を離れること万里なり(千文字書いてもピントが万里ずれている)」という。

古代中国語では、「顕」は頭上につけきらきらとした装飾品で、自己主張の表れである。「隠」は心を落ち着け、真理を修養することで、そのため人々から離れて山野に潜むことである。「顕(顯)」の初期の金字   、  は「日」   と「絲」   と「頁」   との構成で、造字の本義は絹糸を使って宝石などのきらきら光るもので首飾りを作り、首にかけ、頭上を飾り自己をアピールすること。後期の金文の「顯」   、  は    を     を変わり頭部の装飾の意味を強調している。篆書の    、  隷書の    は金文の字形を継承している。

「果」は音符であり意符でもあり、木の枝にぶら下がる丸い果実を表す。篆書の「顆」の「果」は、植物の丸い果実を表す。「顆」の造字の本義は、丸い頭を比喩している。

「碩」の金文    の「石」は大きな岩で、「頁」は頭を表す。造字の本義は、岩石に彫刻された巨大な頭像である。篆書の「碩」  、  は字形の構造を調整している。『説文解字』に、碩は、頭大なり。童謡の「大頭大頭、下雨愁えず、別人に傘あり、我に大頭あり(雨が降っても心配ない、他人には傘があり、ぼくには大頭があって洋服は濡れない)」で言う大頭が「碩」のことである。

「元」は、「玩」   の省略で、弄ぶ、遊戱を表す。「頑」の篆書「頑」は、「元」  と「頁」   の構成で、人が心中に何の負担もなく、遊び心でリラックスして対面することを表す。造字の本義は、子供の天真爛漫で遊び心に充ちていること。隷書の「頑」は篆書の      と書いている。本義は子供の天真爛漫さと気ままさ、遊び心に満ちていることを形容する。拡大解釈として例えば、頑石(石頭)、頑敵(手ごわい敵)、頑固、頑強、冥頑不霊(頑迷無知)のように、「固執、理屈がない、うち勝ち難いこと」となった。『説文解字』に、頑は、㮯頭(コントウ)なり。割るのが難しい節のある木である。李白の『豫章行』に、「豈に戦闘して死するを惜しまんや、君が為に凶頑を掃はん(皇帝のために強敵を掃討する)」。

「頃」は「傾」の本字である。「頃」  の先秦時代の陶文の   の本義は、散りレンゲの食べ物に首を伸ばすこと。金文の    の左側は、食べ物を盛る匙である。「頁」は「頸」の省略であり、首の前面を表す。造字の本義は、匙の食べ物に首を伸ばすこと。篆書の「頃」   は金文の字形を継承している。『説文解字』に、頃は、頭の正しからざるなり。後に「頃」は、例えば『詩経・周南・巻耳』の「頃筐に盈たず」のように、動詞として「傾斜させる、ひっくり返す」の意義に引き伸ばされた。また助数詞として、「万頃の良田」「碧波万頃」のように、「一大片(ひろいこと)」「一百畝」を表す。「頃」の)首を伸ばす」本義が無くなると、篆書の「傾」   には「人」を加えて、新たに「傾」を作り代替し、造字の本義は、匙の食べ物に首を伸ばす事。『説文解字』に、傾は、仄(かたむ)くなり。「傾」は、つまり頭を傾けることである。

「予」は音符であり意符でもある。「預」の篆書「」の左の「予」は、経過を表し、右側の「頁」は頭脳を表し、事情が発生する前に、脳内で未来の情景を想像することを表す。造字の本義は、事情が発生する前に脳内でシミュレーションして構想すること。いわゆる「凡て事は預(さきん)ずれば則ち立ち、預じざれば則ち廃る」とはこの意味である。

「煩」の篆書 「」は「火」と「頁」の構成で、造字の本義は、思考の負担による焦燥と不安を比喩する。『説文解字』に、煩は、熱の頭痛なり。身体の発熱による頭痛。字形は「頁、火」を採用した会意文字である。

「顧」    の本義は振り返り見回すことである。甲骨文「顧」   、金文「顧」   の「雇」は、家で飼育する鳥である。「頁」は、振り返って注目することで、「顧」   、  字には「心して擁護、見張る」意味があり、また左右を見回し、頭を振ることも表す。「王、左右を顧(かえり)見て他(よそごと)を言えり」は孟子と斉の宣王の対話から出ている。孟子は宣王に対して、「ある人が楚国に行こうとしたので、夫人と子供を彼の友達に面倒を託した。その人が帰って来た時に、夫人と子供が、衣食も与えられず、友人が根本的に何の責任も果たしていなかったことに気づいた。そんな友達はどうすべきなのか。」と尋ねた。斉の宣王は「彼とは絶交する」と答えた。孟子はまた「法務執行と監察をする役人がいるが、事務能力が悪く、自分の部下でさえ管理できなくなっている。あなたはどうすべきだと思いますか。」と言った。斉の宣王は「彼の職を剥奪する。」と言った。最後に孟子は「ある国家は統治が行届かず、国内は家業を安楽にすることができない。どうすべきだと思いますか。」と言った。斉の宣王は赤面し?「王は左右を顧(かえり)みて他(よそごと)を言」ったのである。この位負けしている国王は左右を見回して、故意に目線を大臣に遷して、話題を他に移したのである。

「頂」字の原義は「釘の先」である。衣服を縫う時、指の頂(指先)を針の尻に当てる。この「頁」は顔の事ではなく、手指の力を入れる「面」である。側面の「丁」字は?元々毛皮の衣服を縫う骨針であった。鉄鋼の針ができてから、「丁」字はまた女王たちが歯がゆい気持ちになった鋼針を表すようになった。古代にはミシンもなく、衣服を縫うのはすべて手作業であり、貴婦人でさえも免れない女工仕事であった。あいにく絹の布は緻密で針が通りにくかった。衣裳を縫う時は、優雅な貴婦人でさえ、スマートに動くことはなかった。彼女達は針を通して糸で縫うのに骨を折り、手指は針の尻で血豆だらけになった。手指を護るために、指ぬきを発明した。指ぬきは丸い形の小さな鉄片である。鉄工職人は鏨を以て、平な鉄片の上に無数の漏れない小穴をあけた。その後背面のバリを研磨して、リングのような箍(たが)に曲げ、指にはめて使用することができた。手にした針を指ぬきに当て、絹の布を縫うと、針は指ぬきでわずかな力で布を通り、自分の指だけを使うよりもどれだけ効率的であったかは知れない。

古代中国では、首の正面を「頸(こう)」と呼び、背面を「項(こう)」と呼びました。篆書では、「項」は「工」と「頁」で構成されており、此処での「工」は「巧」の省略形で、精巧な工芸を表しています。文字の本来の意味は、女性の後頭部から肩までの間のある細長い優雅な首のことで、通常は宝石や金銀などの美しい装飾品で飾られていました。隷書では、「項」は「頁」を簡略化して表しています。

古代中国語では、「項」の第二の用法は、数量詞として使用され、項目を数えるために使われました。例えば、『三国演義』には「群英会蔣干中計」の一場面があり、「蔣干取出書信,將上項事逐一説給曹操(蔣干は手紙を取り出し、上記の事柄を一つ一つ曹操に説明した)「と述べられています。数学においても、「合併同類項(同じ種類の項を纏める)」と言う特別な文句があります。事物は項目に分けることもできますし、分類することもできます。篆書のの「類」の「米」は植物を指し、「犬」は動物を指します。「頁」は考え中の頭脳を表し、万象を監察し、連想推論し、見られる動植物を分類することを示しています。『説文解字』によれば、「類、種類相似、唯犬為甚(同じ種属のものは類似しており、特に犬はそうである。)」と述べられています。つまり、同じ種類の事物は似たような特徴を持っており、犬科の動物にはその傾向が特に顕著に現れているという意味です。