山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台のマイケル・シルヴァーソン(石大曼)

1861年に近代煙台が開港後、多くの西洋の商人がこの海辺の街に洋行(外国企業)を設立するために来たが、長期間ここに安定したものは多くなく、大多数の洋行は「何年も飛びぬることがない」状態であった。このため、煙台に長期滞在する西洋の商人は多くなかった。煙台に長期滞在する数多くない西洋商人で、近代煙台の多くの洋行を担当したの経営者の一人が、煙台で煙台の英字新聞『芝罘晨報』を創業したが、彼は近代煙台で影響力のあるイギリス人のシルヴァーソンであった。

    冒険家の子

1872年3月、シルヴァーソンは上海に出生し、父親はイギリス人アルフレッド・シルヴァーソンで、彼の経歴は大変伝説的だった。初期に、彼はイギリスから上海へ冒険して、1862年5月にアメリカのウォードが上海で組織した「洋槍隊」に加入し、副頭領のアメリカ人バージェヴィンの腕利きであり、後に作戦での勇敢で、「洋槍隊」の第三団陸軍少佐に昇進した。「洋槍隊」解散後、彼は上海虹口区黄浦路8号、9号に2軒の洋行を開設した。一軒は石炭の総合代理会社シルヴァーソン公司で、別の一軒は小礼查飯店(リトルアスター)である。小礼查飯店から数歩の場所に老礼查飯店(アスターハウス、黄浦路15号、現在の上海浦江飯店)である。老礼查飯店は上海で最初の近代化ホテルで、近代中国で大変有名である。上海で仕事をしていた間、シルヴァーソンは何度も西洋人を民事紛争に巻き込まれ、大変不満足であった。この種の困惑(こんわく)した環境を改善するために、彼は北方の海港都市煙台で運試しをすることを決心した。
1888年ごろ、シルヴァーソンは煙台に来た。初め、彼は宝興洋行で働いた。このドイツが煙台で開創した最初の洋行の一つで、煙台で最もの有名な項目は1877年に中国投資を利用して山東省で最初の器械製糸工場〜煙台纊糸局(あるいは煙台繅糸局)を創業した。1890年に、シルヴァーソンは和記洋行へ行き仕事をした。和記洋行で10年余り仕事をして、1902年ごろ長沙税関へ転職し、三等検察官を担当したが、その後の事跡は不詳である。

    船舶の検察官の娘婿

マイケル・シルヴァーソンの妻の父は煙台で仕事をしていたイギリスの船舶検察官ライエルである。1823年、ライエルはスコットランドのフォーファーシャーにあるガーディン城で生まれ、1870年に煙台に来て、煙台港の船舶検査官と船舶競売人を担当した。間もなく、彼は煙台に二つの会社を創業した。一つは煙台供水公司で主に煙台港に出入りする船舶に淡水を提供した。もう一つは宝特公司である。「煙台は開港当時中国北方最大の港で、国内外の商船が埠頭に出入りで繁忙し、年間の輸出入貿易量は、天津と牛荘(営口)両港の合計の2倍に相当する。」。これから推測すると、ライエルの商売は自然に繁栄した。1872年、ライエルは煙台山のアメリカの駐煙台領事館に近接する場所に、全家族で居住する、豪華な別荘を購入した。この別荘は絶好、風光優美の場所に位置する。
1885年3月15日、ライエルも煙台で亡くなった。年若い妻と幼少の娘ケイト(1878年生まれ)には、少なからぬ遺産が残ったが、突然家庭の
大黒柱(だいこくばしら)を失い、彼女らを異国の地で苦境に陥らせた。間もなく、若いライエル夫人もクレメンス先生と再婚し、クレメンス夫人となった。ライエルの遺産〜煙台供水公司は煙台哈利洋行に経営が委託され、宝特公司はクレメンス夫人の独自経営となった。
1900年11月7日、マイケル・シルヴァーソンとライエルの唯一の女児ケイトは結婚したが、二人は芝罘学校の校友であった。亡くなった父親を記念するために、ケイトは特に婚礼時間を自分の誕生日に定めた。婚礼は煙台の聖アンドリュー教会で挙行し、聖アンドリュー教会のバーン牧師のが取り仕切った。結婚後、二人はライエルが以前に購入した別荘に住み、そこで助け合って40年近い時間を過ごした。

    洋行経理人

マイケル・シルヴァーソンは一生の大部分の時間を洋行で過ごした。1892年、僅か20歳のマイケル・シルヴァーソンは上海のイギリス商隆茂洋行で仕事をした。1894年、彼は煙台に戻り、父親の和記洋行に入り働いた。和記洋行での仕事しながら、一方で妻と義母が経営する宝特公司の経営を手助けした。1902年、マイケル・シルヴァーソンは和記洋行を去り、煙台最大の外国企業の一つ〜士美洋行(スミス・オーシャン)に入り仕事をした。士美洋行の創立者はアメリカ人ルイス・ヘンリー・スミスで、洋行はロシアとの関係が密接でよくロシア商の企業と見做された。賢明と能力により、マイケル・シルヴァーソンは深く主人スミスの気質の重厚(じゅうこう)さを受け、スミス洋行の代印(だいいん)有効者を担当し、上司スミスに次ぐマネージャーのノルウェー人カペレンよりも高い内部地位(ステータス)を持っていた。1906年、士美洋行の主人スミスが亡くなる。未亡人とスミス夫人との綿密な関係のため、カペレンはマイケル・シルヴァーソンに代わり士美洋行の代印有効者として、企業のほぼ全体を制御した。マイケル・シルヴァーソンは引退を決意した。
1912年、マイケル・シルヴァーソンは士美洋行を去り、新しく成立した敦和洋行に入った。敦和洋行はイギリスのマンチェスターのレイルトン市が1912年1月に煙台で創業し、主に輸出貿易と海外運輸と保険などに従事した。マイケル・シルヴァーソンは敦和洋行で主管と秘書を担当し、同時に洋行の代印有効者であった。マイケル・シルヴァーソンが加わって、敦和洋行は最大の発展を取得し、規模も絶えず拡大し、20世紀初めには、煙台で最も成功した外国企業の一つとなった。1941年12月の太平洋戦争の勃発まで、マイケル・シルヴァーソンは敦和洋行に勤務していたが、この期間に、彼は妻ケイルと煙台船舶供水公司と宝特公司を共同経営をした。

    英字新聞のオーナー

マイケル・シルヴァーソンはまた近代煙台の有名な新聞人であり、煙台で『芝罘晨報』を創刊した。『芝罘晨報』を創刊前に、煙台には前後して『芝罘快郵』『快報』『芝罘毎日新聞』などの外国文字新聞を発行した。1894年、山東省内で最初の外国語新聞『芝罘快郵』が煙台に創刊した。これはドイツ資本の哈利洋行の新聞で、経営者は洋行のアウグソトソンで、内容は商業の音信が主で、また国際、国内を包括する新聞である。1894年、日清戦争の新聞内容が大変事実と異なったため、社会の世論と猛烈な批評を招いて、最終的に名誉は大変損なわれ(そこなう)、1897年に閉鎖した。
1901年、煙台の架拉威飯店と西葛洋行の共同者ダムストロムの主催で『芝罘快郵』が復刊し、新聞名を『快報』と改めた。『快報』は哈利洋行が1902年創業の哈利印刷局が印刷を担当し、当時最先進の機械印刷技術を採用した。

1904年、『快報』はアメリカ人マクダーミトが引き継いで、『煙台毎日新聞』と改名した。マクダーミトはかつて哈爾濱市でビジネスを行い、ロシア人と関係が密接であった。日露戦争の勃発前に、マクダーミトは私的に帝政ロシア政府に提議した。ロシア政府が毎年1万メキシコペソを提供するだけで、彼は『煙台毎日新聞』と一切の西洋の新聞が帝政ロシア政府に有利な文章を操作できるとした。マクダーミトの提議はロシア皇帝ニコラス2世の同意を獲得して、これに因っての日露戦争の期間に『煙台毎日新聞』は大量の日本政府のマイナスイメージが氾濫した新聞となった。アメリカ人マクダーミトが日露戦争中の作用に対して、時の帝政ロシアの財務大臣ココツェフは後の回想録で「彼に与えられた任務を大変誠実に全う(まっとう)職務を完成した」と彼を称賛した。

『煙台毎日新聞』の親露反日の傾向は最終的に日本人を怒らせた。1907年12月11日、『煙台毎日新聞』は日本の駐煙台領事館に武力で休館を命じられた。
1908年、マイケル・シルヴァーソンは『煙台毎日新聞』の接収管理を勧められ、『芝罘晨報』と改名した。『芝罘晨報』は日刊紙で、印刷と発行は哈利洋行印刷局の担当で、マイケル・シルヴァーソンは社主で編集長であった。保存されている『芝罘晨報』からは、『芝罘晨報』の月額購読料は20メキシコペソで、主要な読者は英米の駐煙台の居留者で、定期購読者は75人であった。シルヴァーソンの経営する『芝罘晨報』は1915年まで持続し、其度煙台外国商会が引継ぎ、まもなくまたイギリス商仁徳洋行が出版発行の責任を負ったが、1917年に再び停刊した。間もなく、『芝罘晨報』はイギリスの会社仁徳洋行に売り出された。同年、仁徳洋行は『煙台英文日報(Chefoo Daily News)」と出版し、この新聞は太平洋戦争勃発まで発行された。
1908〜1915年、シルヴァーソンは『芝罘晨報』は7年間を経営した。『芝罘晨報』は主に煙台の西洋人社会地区に向けられ、一般に影響したが、近代煙台の新聞業界の史上に、それは不可欠なからぬ一部分であった。

    強制収容所の囚人(しゅうじん)

マイケル・シルヴァーソンの煙台での初期の生活は順風満帆(じゅんぷうまんぱん)であった。商業の経営以外に、彼はまた近代煙台の多くの社会活動に参与し、煙台の多くの西洋人公共社会組織のメンバーであり、煙台芝罘クラブのメンバーであり、1922年には推薦されてクラブの会長に推薦され、また煙台外国商会の創始者の一人で、フリーメイソンの煙台セントアンドリュース分会のメンバーであった。1907年、シルヴァーソンと和記洋行の支配人エックフォードは共同で煙台外国商会を創業し、彼は一度商会主席も担当した。商会は煙台の西洋人商人の利益を代表し、大量の資源を掌握し、煙台で相当大きな影響力を擁していて、後のハーバー工程会、華洋糸業連合会などは皆彼の主導で成立したものである。
日本が煙台を占領するに従って、シルヴァーソンの命運は徹底的な改革が発生した。1938年2月3日(旧暦正月4日)、日本軍は煙台を占領し、土地や家屋敷の大きな掠奪を開始した。
1939年8月、日本軍が支援する傀儡(かいらい)政権である煙台市公署は、煙台山に日本軍のキャンプを設置したことを理由に、シルヴァーソン夫妻を居住した煙台山の別荘から追放し、彼らの財産を没収した。当時日本とイギリスはまだ宣戦しておらず、イギリスの駐煙台領事館はこのため日本政府に強烈な抗議を提出し、イギリスのロイター社などの西洋のメディアも広範な報道を進行した。これによって「煙台のイギリス在留民シルヴァーソン夫妻の不動産が日本に強奪(ごうだつ)されたニュース」が世界的な注目を引き起こした。
シルヴァーソン夫妻にとって、不動産が日本軍に掠奪されたのはおそらく最も残酷ではなかった。1941年12月7日、太平洋戦争勃発後、日本軍は中国占領区の英米などの在留民を拘留と、隔離をした。中国の北方の英米等の在留民は山東省濰県の強制収容所(同盟国在留民集中キャンプ)に拘留され、70歳近くのシルヴァーソン夫妻も例外でなく、彼らと一緒に拘留されたのは芝罘学校の学生もいた。ゴードン・マーティンの著書「芝罘学校」にはあるシルヴァーソンの濰県強制収容所に関する記録があり、この芝罘学校校友の再会を称している。その情景は、人々をすすり泣かせた。
1845年8月、濰県の強制収容所はアメリカ軍によって開放され、シルヴァーソンは終に自由を獲得し、イギリスへ帰ることができた。ここに至って、煙台で60年余りの長きに生活したシルヴァーソン夫妻は中国を永遠に去り、シルヴァーソンとその家族の煙台での輝かしい過去も雲煙の彼方に消え去った。

著者 煙台 魏春洋