煙台政記海運公司
政記海運公司は順太街と広東街の交差点の南東側に位置し、1920年に建設され、北西に面し、約400平米㍍の建築面積、四方斜面の青瓦屋根、二重石積み構造、平面は正方形で、門の両側にドリック柱の壁があり、2階のバルコニー(現在取り壊され)、三角形の切り壁の下には「政記公司」の石の扁額が吊り下げ、建物は朝陽街改修計画に組み込まれています。
20世記初頭、青島港の外国商人に対抗する為、煙台港の中国商人達は順義、振飛、政記、毛和興などの海運会社を設立しましたが、中でも政記は最も成長が早く、影響力のある会社でした。
1901年文登籍大連商人張本政、張本才は30万元を投じて煙台高橋海運会社の煙台-大連航路旅客貨物海運事業を引き受け、傭船後に購入した日本船2隻を利用して煙台に政記海運公司を設立し、威海衛、煙台、龍口、天津、営口、大連、旅順、安東(丹東)などで海上輸送を行なっていた。龍口、天津、安東などに支店を、営口、福州、広州に代理店を設置しており、煙台電力や金融などの事業も手掛けている。
1920年を直皖戦争中、政記公司はほぼ絶滅の危機に直面しました。
直系武将の吳佩孚は10以上の船(会社の船のトン数の3分の1)を2回採用し、止むを得ず、大連の日本銀行から資金を借り入れ、日本側が全船を買収しようとした。奉系武将張作霖は、沈鴻烈を政記公司が100万元を投資すれば、政記公司を水火事に救う為に、張本政に連絡を取った。1928年、張学良が東北海軍の最高司令官に就任した後、張学良の承認を得て、東北海軍の1万トンの華甲号(後政記公司が「中華」に改称)、3000トンの回安号、600トンの砕氷船が政記公司に入港し、政記公司の配当の10分の1を支払った。
日本資本に買収される危険があった、張本政の思想は日本に傾向していた。
1920〜30年代の政記会社は積極的に日本帝国主義の中国侵略に服務して、1929年2月20日に張本政は日本の首相田中儀一から叙勳(じょくん)され、同年張本政の銅像を大連公園に建立する許可を得た。1930年代の政記汽船会社は本部を大連に移して、経営規模は迅速に膨張して、1940年12月には32隻の汽船を保有して、総トン数は5万トン近く、日本人職員130人、中国船員1,500人余りを雇用し、金融、不動産と公共領域を開拓し、高密の人綦紹武はこの間に政記汽船煙台会社社長を担任した。1938年2月に日本軍が煙台を侵略すると、政記会社は魯浜飯店を日本海軍陸戦部隊の芝罘本部の使用に提供した。1940年に張本政は日本の「紀元2600年」行事中に参加して日本の天皇から「勲五等」の金褒章(ほうしょう)を賜った(たまう)。
日中戦争でも日本軍の輸送に協力しますが、アメリカの航空機や潜水艦の攻撃で14隻の持ち船を失い、1945年の戦争終結とともに会社は倒産、張本政は漢奸として処刑されました。
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