山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センターの新着ブログ記事
-
-
大連市旅順口区万楽街10番地に位置する旅順関東軍司令部跡地は、1900年に建てられ、122年に建てられたヨーロッパ建築様式です。関東軍司令部の最初の跡地は旅順太陽溝景勝地にあり、この建物は近代ロシア様式で、本体は2階建ての半石積みの木製フレーム構造で、延べ床面積は2602平方メートル、付属面積は9... 続きをみる
-
-
-
ドラマ撮影した皇太極(ホンタイジ) 瀋陽故宮には后金帝王の御用兵器が幾つかあります。例えば、清太祖ヌルハチの宝剣、清世祖福臨の牛角の樺皮の弓、清代中後期の清高宗弘歷のの綿の鎧(よろい)などがあります。及び清代八旗将兵の護衛武器、警報武器、弓箭、刀剣、ショットガン、火砲などの冷熱兵器は100件以上が... 続きをみる
-
-
近代煙台では、宗教組織が林立した。アメリカ合衆国長老派教会、バプテスト教会、イギリスバプテスト教会を除いて、非常に重要なキリスト教の力、つまり煙台に最初に参入したローマカトリック教会もあった。記録によると、1858年にローマカトリックは中国の煙台に伝えられ、アヘン戦争後に急速に発展した。近代煙台も... 続きをみる
-
近年煙台は、開港都市となって、その美しい風景、独特な自然条件で、大量の西洋人を煙台での仕事、生活に引き寄せ、また彼らに深い記憶を残した。1920年代、あるロシア生まれのスイス人7歳の女児が家族に従って、煙台で三年間生活をした。帰国後、彼女は一編の回想的な文章を書き、彼女が煙台のこの「まるで夢のよう... 続きをみる
-
2022年2月8日、人を連れて二度大案子山堡塁に参観した。大案子山堡塁の旧跡は現在の大連市旅順口の水師営街道街道溝村大案子山上にある。早期の堡塁は清軍が1889年に建設し、1894年11月21日7时30分に日本軍によって破壊された。早期の堡塁は清軍が1899年に建設し、帝政ロシアが旅順を侵略後19... 続きをみる
-
当地時間1896年8月28日、大清帝国直隷総督兼北洋大臣李鴻章は、米国訪問を開始する為にクルーズ客船「セント・ルイス」でニューヨークに到着しました。 李鴻章はアメリカのクリーブランド大統領から迎えられ、アメリカの要人や群衆と会い、「前例のない礼儀」を受けた(ニューヨーク・タイムズ)。このインタ... 続きをみる
-
-
旅順のドックは旅順口旅順街58号に位置し、世界でも有名なドックの一つである。ドックのプロジェクトは3段階に分かれている:中国の独自の設計と施行段階(1880〜1883年);プロジェクトは中国が主で、ドイツのエンジニア協力段階(1885〜1886);フランスの請け負っ(うけおう)た段階(1886年1... 続きをみる
-
錦州市北鎮清代のキリスト教会は、英国牧師ヘンヴェリが20年(1894年)に建てられました。元々は福音堂として広寧城内什字街に建てられたが、後に義和団によって焼失した。 光緒31年(1905年)、ヘンヴェリは城東門里の土地を購入し、キリスト教会と関連建物を再建しました。 中華人民共和国成立後、キリス... 続きをみる
-
煙台山前には、南北を縦貫する商店街〜朝陽街がある。文献の記載によると、朝陽街は1872年に建設され、煙台の有名な外国企業や商店の大多数がここに集まり、通りに中国語と英語の看板がここにある。その独特な異国風情が国内外で有名である。現在の朝陽街の幾つかの英語名に体現されている。例えば、初期の〜朝陽街は... 続きをみる
-
近代煙台が開港後、大量の西洋人が前後して煙台で仕事、生活をしたが、彼らはまた当時最先端の科学技術をも煙台にも持たせた。これらの先端技術は煙台の近代史上に消すことのできない痕跡を残している。例えばカナダ人ウィリアム医師は近代煙台最初の無線ラジオ局を設立した。 ウィリアムは、1861年生まれ、アメリカ... 続きをみる
-
旅順の椅子山堡塁の旧跡は今の大連市旅順区水師営街道寺溝村西南方向にある。早期の砲台は清軍が1889年に建造し、日清戦争時期に、ここを留守した清軍程允和部隊は血なまぐさい戦いで、激しい砲撃の掩護の下で日本軍第ニ2旅団の攻撃を何度も撃退した。ロシアは強制租借の時期に、この砲台に対して堡塁を形成するため... 続きをみる
-
旅順大案子山堡塁と椅子山堡塁を参観すると、二つの隠蔽部が相似してほぼ同じ地下室に設計されているのを発見できる。地下室の上にはU字鋼が横たわり、何年か前にある人が鋼材を必要としたため隠蔽部の鋼材の蓋を破壊した。この地下室は何に使われたものなのか。幾つかの異なる説明があり、あるいは地下貯蔵室といい、ま... 続きをみる
-
香港の哲夫先生と煙台の王景文先生が共著した『煙台旧影』は、清朝後期の煙台からの古いポストカードのセットを紹介した。このポストカードは、結婚と葬儀の2つのグループに分かられ、各グループに12枚ずつ、カラーで描かれています。100年経ちますが、色はまだ明るく、煙台の日常生活の鮮やかな記録です。現代では... 続きをみる
-
青島の席光春博士は中国台湾人医者であり、広州漢方医学大学 鍼灸学学士、山東漢方薬大学 漢方医学修士博士、アメリカCohen大学 人類学博士、アメリカPiedmont 大学 漢方医学教授、中華五色五味抗癌教会 会長、世界漢方薬連合会体質専委 常委、国際薬膳師認定委員会会長、中韓量子医学研究院 院長、... 続きをみる
-
万豊洋行は近代煙台の最大のピーナッツ輸出商で、1922年ドイツ国ニグマン氏が、煙台で創立し、最後の支配人はダンシンであった。ダン・シンは中国で生活と仕事を24年をして、その内煙台では17年の長きに達し、ダン・シンの4人の子女が煙台出生で、その中の女児ドン・サラ(董莎楽)は後に造詣のあるドイツ国の漢... 続きをみる
-
旅順の第二極東農場(龍頭乳牛牧場)の、旧址は現在の大連市旅順口龍頭鎮旅順中路と徐土線交差点の南西角、龍頭駅の東北に位置する。ここは日本植民地時代に建てられた乳牛牧場で、中には事務棟、工場、宿舎などの建物が残っている。解放後、ここは「龍頭乳牛牧場」と改称され、当時旅順市の国営農場所属の牛乳隊となった... 続きをみる
-
-
20世紀初頭、煙台の多くの外国商社の指導者には、盎斯、和記、士美等があり、これと遜色(遜色)のないイギリスの商社が、盛記洋行であった。この商社の店主カーティスは煙台商業会の巨頭で、社会活動家であり、彼は働き盛りで亡くなったが、煙台の近代史上に伝説を残した。 富商の子 盛記洋行はカーティ... 続きをみる
-
旅順で大型海軍基地建設するために、李鴻章はまず北洋海軍営無性に道員馬建忠を考察に派遣し、後にまた自ら軍艦に乗り地形考査に向かい、旅順を港湾場所に決定した。朝廷を説得するため、首都のあの世事を熟知しない臣下達の騷々しい弁舌を避けて、彼は外国で成功した港湾建設の例を列挙して言った。外国が停泊場所を建設... 続きをみる
-
旅順の饅頭山砲台の、跡地は老虎尾半島西鶏冠南面の山上にあり、海辺に寄り添った砲台である。この砲台は1884年7月に、費用3万両で建てられた。砲台中央には240ミリメートルのクルップ砲が3基あり、両側に120ミリメートルのクルップ砲2基がある。砲台付近には親兵左営の駐屯基地があり、その正門上方には「... 続きをみる
-
2022年2月12日午前、案子山、椅子山トーチカと弾薬庫の山間に招かれた。多くの人は道に不慣れなため、この弾薬庫を見つけられず、運転に関係なく、やはり歩行でも、民泰街を行き、ロシアの前総理ステパーシンが出生した建物の下を、右に回り直行し、その後公路に従って左折して直行、その後公路に従って左折して進... 続きをみる
-
1861年に近代煙台が開港後、多くの西洋の商人がこの海辺の街に洋行(外国企業)を設立するために来たが、長期間ここに安定したものは多くなく、大多数の洋行は「何年も飛びぬることがない」状態であった。このため、煙台に長期滞在する西洋の商人は多くなかった。煙台に長期滞在する数多くない西洋商人で、近代煙台の... 続きをみる
-
-
煙台は北方最初の開港地の一つで、初期には新鮮な事物が、北京、上海、広州等の地と足並みを揃えて登場した。1898年、欧米の流行に伴い、中国でも図画を印刷した葉書が現れ、煙台最初の絵葉書は北京、天津、上海等の地とほぼ同時に誕生した。 図1 これは香港からドイツ国キールへ送られた絵葉書で、1898年7月... 続きをみる
-
近代煙台の対外開放後、西洋の宣教師が続々と来て、彼らは教育、医療、実業などの領域で西洋文化を伝播する紹介者に当たり、膠東社会の近代化の発展に無視できない作用を発展して来た。この宣教師の中で、アメリカの南バプテスト教会の宣教師ジェシーは1860年に煙台に来たが、彼の主要な活動範囲は登州、黄県などの地... 続きをみる
-
1903年の済南は、イギリス威海衛の役人ロックハートが済南を訪問し、清兵の鼓笛隊が歓迎した。 1903年、当時の威海衛行政長官ロックハートは山東省周馥の求めを受けて、山東地内の訪問視察をした。彼の引率(いんそつ)で外輪(蒸気機関車)に乗って海岸線に沿って羊角溝鎮入り口から入り、その後乗船して小清河... 続きをみる
-
-
-
芝罘区の浜海路東端にあり、浜海ホリデーホテルの真南の高い斜面に美しい西洋建築があるが、この見地は近代のギリシャ人の永興洋行の支配人パラディシスの旧居である。永興洋行の支配人といえば、近代煙台の有名人で、その家族3人は皆中国(煙台)に大変深い淵源(えんげん)がある。 パラディシスの家族のルーツは、老... 続きをみる
-
公冶長(前519〜前470)、春秋時代の斉国人、また魯国人とも言う、孔子の学生で、娘婿、特異な功能があり、良く百禽の言語を聞き理解した。 ある日、公冶長が山に入り芝刈りし、一群のカラスが南山の麓に野獣に咬まれた梅花鹿のことを議論しているのを聴き、そこで彼はすぐにその鹿の肉を割い(さく)てきて食べ、... 続きをみる
-
日露戦争後、旅順で日本海軍連合艦隊司令東郷平八郎と陸軍第三司令乃木希典大将を以て命名した街道二本、即ち東郷町(港湾街)、乃木町(得勝街)がある。これを除いて、広瀬武夫少佐の名をもって、広瀬橋「友誼橋」と命名した、一本の橋がある。大将から少佐まで階級差別はかけ離れているが、なぜ、広瀬武夫の名が命名さ... 続きをみる
-
山東省最初の海港都市、煙台は地理的位置が優越し、良好な性格環境は一度中国北方最大のキリスト教伝播の中心及び欧米各キリスト教派の中国での布教の中心であった。近代の有名な西洋の宣教師、カルヴァン(狄考文)、コルベット(郭顯徳)、ネヴィアス(倪維思)、ウィリアムソン(韋廉臣)、ハドソン・テーラー(戴徳生... 続きをみる
-
大連の多くある古い橋の中で青泥洼橋は市内中心部の商業圏で名が最も通っている。しかし多くの人がこの橋を見たことがない。 1899年に帝政ロシアが旅順・大連を租借した時、労働公園一帯は「西青泥洼」村と称し、青山下の海に入る河川が西青泥洼河と呼ばれていた。ロシアは川に三本の木橋と一般の鉄橋を架設(かせつ... 続きをみる
-
19世紀末の初め、中国の北方は世界に衝撃を与えた社会運動、即ち義和団の運動が発生した。義和団運動は「清朝を助け西洋を消滅する」をスローガンとし、中国滞在宣教師と中国のキリスト教徒を包括する、西洋の中国に駐在する人士に狙いを定めた。大規模な群衆暴力運動であった。義和団の追討から逃れるために、大勢の西... 続きをみる
-
日清戦争は中日両国間の国運の戦いであった。この戦争中に天朝上国(中華中心主義)の清政府は日本に打ち負かされ、権利を失う屈辱(くつじょく)的な『馬関条約』の調印を迫った。『馬関条約』の調印は、東アジアの局勢を緩和するどころか、かえって風雲の急変を引き起こした。ロシア、ドイツ、フランス三国は日中の戦い... 続きをみる
-
民国時期に、煙台には大変有名な西洋の女性宣教師があり、当地の人に「狄師娘」と尊称された。狄師娘(メアリー・グレース・フレンチ・ドリー)は当然煙台が毓璜頂病院の院長狄樂医師の夫人であった。1921〜1942年に煙台での仕事中に、彼女は積極的に煙台の音楽教育と社会公益事業に参加し、煙台の近代史上に抹消... 続きをみる
-
近代煙台開港後、大勢の西洋人がここへ商売、布教、仕事に来た。その中には在る兼業のノルウェー人があった。彼はフランスの天主教の施病院(煙台山病院の前身)の外科医であり、また東海関医務官で、同時にノルウェー、スウェーデンの煙台副領事であったのは、グローセン医師であった。20世紀初期、グローセン医師は煙... 続きをみる
-
1920年代、煙台は「世界ヘアーネット業中心の一つ」で名が世に通っていた。煙台で経営していた、ヘアーネットには英国の極東洋行(実にアメリカの商社)、仁徳洋行、ドイツの万豊洋行と道孚洋行4家があった。この4大商社で、アメリカの極東洋行の影響は最大であった。1930年代には、極東洋行は煙台で輸出工芸品... 続きをみる
-
-
ロンドンの大衛地帝国戦争博物館の珍蔵品には、奇妙な展示品があり、旧式のタイプライターで廃紙に印字されたレシピがある。このレシピには多くのサラダ、デザート、中国の炒め物、イタリア麺とフレンチのレバーペーストなどの食品の製作方法が記録されている。このような粗末で粗末にできない料理書の、背後には一人の煙... 続きをみる
-
煙台港の運航と貿易の発展を促進するために、1905年末に初めて煙台港改良の建議が提出され。一道155万税関両(銀)で推定される攩浪壩を建設することが提案されました。凡そ船舶がこの防護区内に来るときは、皆埠頭寄付と費用を収める必要かあり、上述の経費に充てる(あてる)。この建議は上位政府の同意を得られ... 続きをみる
-
最近、威海市は本土のオミクロンと診断された病例と無症状感染者が出現し、疫病の防衛制御は厳しい試練に面した。省市の疫病の処置作業は威海の指揮部の統一指揮のもと、我が市の医療と治療、訪問観察に順を探り、流動の淵源を探り、、封鎖調査、洗浄消毒、隔離と管理制御などの各項作業を整然と進行する。 流行に直面し... 続きをみる
-
お客様の皆様にコロナ防疫指針に従ってご案内申し上げます。本日から別途通知されるまで、ロッカー、レストラン、喫茶店、プロショップ、サウナなどの公共施設はご利用いただけませんので、お困りにならないよう、事前にお着替えを済ませてからご来店いただきますようお願いいたします。 その他、来場者には以下のいくつ... 続きをみる
-
山東で最も見るべき価値のある百年の古教会は、それぞれ独特な文化遺産である
NO.1 済南洪家楼教会 Sacred Heart Cathedral Jinan 洪家楼教会は、全称は洪家楼キリスト聖心主教会である。義和団事件賠償金で建設され、オーストリアのコルビニアン・パウガー修道士の設計で、1905年に完成、かつて華北最大の天主教会であった。 建築は東から西向きに坐して、... 続きをみる
-
青島中山公園は、青島市内の人の美しい忘れ難い思い出を支えてきた。青島のランドマークとして、この街の歴史的変遷を目撃し、それは我々の心中で替えるべからざるものと言えるであろう、この文化があり、歴史があり、美しい風景のある公園は、ずっと青島市内の人民の休暇・娯楽や青島の来客が必ず訪れる地である。中山公... 続きをみる
-
1926年私は遠東商学院で勉強し、夏休みに煙台を巡った時、ちょうど煙台ハーバーの工事で事物員(現在のバイト事務員)を募集していて、私はタイピングと流暢な英語で試験に合格し、毎月の給料45元、翌年には55元に改められた。事物員儲けにならないので、1928年にアメリカのペンシルバニア万国通信学校の土木... 続きをみる
-
祈福鐘の概説 祈福鐘は今を去る650年の歴史がある。紀元1347年(元順帝の至正6年)、元朝朝廷は高麗国で仏法を弘揚(ひろめる)するために、皇帝が出資と臣下を派遣して高麗でこの鐘を鋳造した。紀元1905年に、日本の東本願寺派仏教法師阿部栄が大連に来て布教と東本願寺(現在の大連京劇団所在地)の建造に... 続きをみる
-
一 設行建点 モービル製油会社は、アメリカロックフェラー財団に属し、1870年にジョン・ロックフェラーの創業。1877年に初めて石油を中国に運び、1894年にモービルが煙台で、「モービル洋行」と称し、煙台山下の海岸街32〜33号の住所で、実施した。 実施前には、「盛昌」号と礼和公司が共にモービルの... 続きをみる
-
近代煙台の東海岸に、かつてランドマーク的な建築物が屹立(きつりつ)していて、それはゲストハウス(Family Hotel)であった。ゲストハウスは近代煙台で大変影響のある外交旅館であり、イギリス人エドワード・ニューマン(Edward Newman)が創設し、その家族が20年間経営した。ニューマン一... 続きをみる
-
-
クレーグル( Christian Kroger、1903〜1993)はブッセ二女のエーリカ(Erika Busse)の夫である。ブッセと妻のドーラは3人の女児を生育し、彼女らは皆煙台で生まれた。長女ゲルトルート(Gertrude Busse)は1908年生まれ、1931年8月8日アメリカ駐廈門副領... 続きをみる
-
煙台に滞在中に、ブッセは後に「中国のシンドラー」と呼ばれるジョン・ラーべを接待した。 ジョン・ラーべ(John Rabe)、ドイツハンブルグの人、1908年8月18日に北京に来てから、あるドイツ商店の販売員であった。1911年、ドイツのシーメンスの駐天津支社で会計兼文書となり、後に北京支社支配人に... 続きをみる
-
ブッセは煙台の老舗の経営者で、煙台に40年余り住んで、深く煙台の社会生活に関係した。彼は「中国のシンドラー」と呼ばれるジョン・ラーべ(John H.D.Rabe)と深厚な交誼があり、その聟(むこ)は南京大虐殺中に中国人を救出するために積極的に奔走した。 煙台港拡張のための建議 盎斯洋行は近代煙台の... 続きをみる
-
近代の煙台商業に言及するには、盎斯(アンツ)洋行を避けられない。盎斯洋行は近代煙台最大の外国商社の一つで、1886年ドイツ人アンツが朝陽街に設立した。盎斯洋行が盛況の時、煙台の落花生の輸出業務を独占し、例えば煙台最初のレントゲン装置は盎斯洋行が輸入してフランス病院(現在の煙台病院)に納入(のうにゅ... 続きをみる
-
一 盧溝橋事件前に、機構には領事館、大連洋行(商社)、日本国民小学校、火葬場、三井洋行があり、これらの機構では日本の作業員と家族がいた。 また市の中心ではない場所に分散している高麗人家(ヘロインの小売りを専門とし、麻薬中毒者も保護した。中毒者が最初警... 続きをみる
-
和記洋行は煙台開放後イギリス人が設立した商社の一つで、主に輸出貿易と海運の代理業務を経営し、盛んな時期には煙台港の海運業と保険業務を独占した。その素晴らしさの背後には、 エックフォード家族の苦労と努力が満ちていた。 エックフォード家族のA.エックフォード、V.エックフォードとR.エックフォードは前... 続きをみる
-
ディクソン 青州の医学活動は1880年に始まり、早期に青州に来たイギリスバプテスト教会の医学宣教師メドハスト(Medhurst)、ハーバート・ディクソン(Herbert Dixon)、サワビー先生(Mr.Sowrrby)とターナー先生(Mr.Turner)が都市と農村で単独に遊歴して医者をした。光... 続きをみる
-
旅順白玉山の表忠塔は1909年11月28日の落成式典ののち、毎晩夜通し灯火が点され、戦死者亡霊の永遠の不滅と、御霊の故里への望郷の道を照らす寓意(ぐうい)があった。 上面のこの写真は珍しいもので、哲学的な詩的な文字が配置されている。写真は龍河の河口に懸けられた日本橋と、さらに山上を照らす灯火が表忠... 続きをみる
-
青州市は、山東中部に位置し、山東省の統括する県級都市で、古代九州の一つであり、1986年に元の益都県から県を撤廃し市を設置した。 アヘン戦争後に、清朝と各国代表は協議を取り交わし、宣教師達が合法的にかつ円滑に中国内地に入り込み布教を進行することをできるようにした。およそ1860年ごろ、英米両国のキ... 続きをみる
-
北方で最初の開港都市の一つとなった。近代煙台は優越な地理位置と良好な水深のある港湾で、西洋人が中国を訪問する重要な足掛かりの一つであった。1879年6月17日、開港都市煙台は1名の神秘的な貴賓〜総統の任を降りたユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses S. Grant,1822-1885)... 続きをみる
-
-
-
果物を家政婦として福音の道を開く〜ネヴィウス ネヴィウスは田舎に自ら設計した洋式の小屋を建て、「南楼」と名付けて、宣教師と集会の最適な場所とした。彼は山間の土地が痩せていて、農民は皆貧窮なのを見るに当たり、すぐ先進の農業科学技術を導入し、農民の収入を高め、人民の生活を改善することを決意した。ネヴィ... 続きをみる
-
山東登州は、今は煙台に属すが、清朝時期には、登州府と称して、宣教師が中国へ来た頃には、登州は地所が山東半島一体であったので、渤海と黄海に臨んでいて、近代早期には登州と煙台は山東に来る外国人宣教師の最初の逗留地で、また早期のキリスト新教教会の中心地であり、彼らはこの両地方を拠点と大本営として、山東全... 続きをみる
-
-
-
飛鳥形鈕蟠螭紋提鏈盒(ひちょうけいちゅうばんちもんていれんごう)
提鏈盒、青銅製、通高10.4、口径6.1、胴径10、底径8センチメートル、太鼓胴で、高台が外に付く。字母口。蓋があり、蓋部分は全面に蟠螭紋を付け、蓋頭には鳥形のつまみがあり、鳥形は非常に迫真していて、羽を広げ飛ばんとする様子である。両側にはそれぞれ円環のつまみがあり、つまみには鎖が付き、蓋のつまみ... 続きをみる
-
各地方には各地方の特色があり、北京といえば我々はすぐに故宮や、長城と天壇を思い起こし、南京といえば、我々は総統府や、中山陵等を思い起こすように、この地方の代表、その地方の名物、あの地方の珍品がある。これらの人気の地方を話し終わった後で、我々はまた済南洪家楼教会に関して話してみたい。中国の伝統と特色... 続きをみる
-
-
旅順のこの洋風の白亜(はくあ)の建物は「医学専門学校」の附属病院である
日本の植民地統治の時期には、旅順に三ヶ所の高等教育機関が建設された。すなわち元の406病院にあった旅順工業大学、海軍基地司令部にあった旅順高等学校、海軍某部署の兵站部(へいたんぶ)にあった旅順医学専門学校である。旅順医学専門学校は、黄河路に位置した。日本の帝国主義が満州を侵略して、満州国を建設して... 続きをみる
-
旅順龍河の河口の未開発の状態は大変に広々としていた。清末に、水中に石ブロックを敷き詰め沈下橋を形成した。潮が引いた時には、通行人も車馬も皆通過できた。満潮時には小船が料金を取って対岸に渡した。 上記の古写真中の道路と橋梁(きょうりょう)は、ロシアが旅順大連を強制租借してから、太陽溝新区を開発するた... 続きをみる
-
-
-
威海の旧英国領事館は1901年に建てられ、現在は一つの建物だけがよく保存されている。以前は、イギリスの傭兵部隊の副指揮の住所、中国連隊の、いわゆる華勇営の副指揮官の住所であった。華勇営が解散後、イギリス当局の中国担当部局となった。後の、1930年10月に中国政府が威海衛の主権を取り戻した後、イギリ... 続きをみる
-
底径24.7センチメートル、高さ20.5センチメートル、重さ32.5キログラム。 鉄の鋳物(いもの)、半球状で、平底、上部は半環形のつかみとなり、分銅の側面には銅の詔勅(しょうちょく)版がはめ込まれている。銅の詔勅版は長方形であり、長さ11.08センチメートル、最大幅8.8センチメートル。上面に秦... 続きをみる
-
-
-
日露戦争後、二〇三高地は日本国内で大変有名となり、旅順を訪問して戦跡を参観する日本人は二〇三高地を最初の場所として、彼等は乃木が題字を書いた「爾靈山」記念碑に駆けつけた。最近発見した古い写真は、日本の一家が日本軍重砲兵観測記念碑を参観しているもので、これは旅順地区で最初であった。 この写真は大変鮮... 続きをみる
-
1904年、帝政ロシアは積極的に「黄露計画(ロシアの中国進出)」実現した。1904年2月6日、日本は正式にロシアと国交を断絶し、2月8日夜間に宣言無く戦った。これで日露両国の帝国主義の掠奪が勃発した。 制海権を掌握するため、日本軍統帥部は旅順口をロシア艦隊の封鎖を決定した。1904年2月9日から1... 続きをみる
-
旅順の民間では乃木大将を取り上げると、それぞれに伝えられて、多くの老人は、語っている。乃木は大変凶暴で、ニ〇三高地攻撃でしばらく落とすことができずに、多くの人が死亡すると、乃木は(怒りで)目を赤くして、それに軍刀で自分の次男を切り殺して、自ら日本軍を引率(いんそつ)して一緒に突撃して、やっとニ〇三... 続きをみる
-
およそ全ての良好な病院の前身は教会病院で、多くの有名大学も教会が設立したものである。 元代に、アラビア医学が中国に伝えられた。 1270年に北京に「広恵司」が設立された。 『元史、百官志』によると、広恵司の職責は二つある。 一、宮廷用の回族薬品の製造と混合(調剤ちょうざい)を掌握する。 二、当直衛... 続きをみる
-
旅順博物館のマンモスの前歯はどうしてもたらされたのか。 旅順博物館新館には長いマンモスの前歯が展示されている。このマンモスの前歯はどうして館内に収蔵されたのか。そこには物語がある。 改革開放後、民間人は船を整え、海に出て魚を捕獲することが認められた。旅順西部の海辺の一漁民が、ある日海に出て漁をして... 続きをみる
-
-
203高地に関する文章は、多い。最近また新発現があり、203高地で戦死したロシア軍の頭蓋骨の写真が発見されている。この写真が撮影された時は203高地記念碑の建設よりも早かった。写真は日本人による撮影である。 我々が通常見る頭蓋骨は完全なものであるが、この頭蓋骨は前頭左半分に大陥没(かんぼつ)があっ... 続きをみる
-
-
煙台金海湾酒店(ゴールデン ガルフ ホテル)は煙台開港百年の文化の中心に位置している。金海湾酒店1号棟の芝罘倶楽部は、元はイギリス人居留者が煙台で開設した娯楽場所で、一時賑やかであった。中外の商人が往来し、各国大使館が集中し、かつては海岸の景色が果てなかった。 金海湾酒店1号棟(芝罘倶楽部)は煙台... 続きをみる
-
雕(くまたか)は一種の大型猛禽で、タカのようで、タカより大きく、体型はたくましく、翼と尾羽は長く幅広、飛翔はゆったりとして、山岳近くの高空を旋回して飛翔し、野ウサギ、大型哺乳類の家畜の子などを捕食し、またネズミ類も好んで食べるもので、中国でよく見られる種類には金雕(イヌワシ)と烏雕(カラフトワシ)... 続きをみる
-
数千年来、封建社会で鎖国的政策の籠目(かごめ)に閉ざされて、農耕文明はずっと中国の社会生活に影響した。煙台は古代には「転附」「芝罘」と称し、明洪武31年(1398年)に、倭寇の襲撃撹乱を防ぐため、明政府は芝罘湾南岸に築城し、奇山所守禦千戶所を設け、合わせてその北部海岸の小山に烽火台を建設したので、... 続きをみる
-
最近、ある人が私に難問を出しました。それは、日清戦争に於いて旅順戦地の日本軍が清軍の戦争捕虜をどのように扱ったのかという問題です。 この問題は簡単です。旅順戦地には一人の捕虜もいなかったので、そもそも清軍捕虜の扱いに関する問題は存在しなかったのです。旅順に総攻撃を仕掛ける前、日本軍第一師団長の山地... 続きをみる
-
世界絵画の両体系から見ると、中国画を代表とする東洋絵画と油絵を代表とする西洋絵画は、それぞれ独自の基本的特徴と歴史伝統があり、従っておのおの不同の表現形式と観賞の特徴がある。 中国絵画は、国画と略称し、世界美術の領域では独自の体系をなし、単独の特色があり、東洋絵画体系の主流となっている。西洋絵画と... 続きをみる
-
1871年、メルベンというアメリカ人宣教師が山東済南に来て、アメリカ北長老会の山東での最初の布教所を建設した。1878年、自分の布教所の近くに、メルベンは診療所兼薬局を開き、周囲の民衆への簡単な診療と常備薬の提供を担当し、「文璧診所」と称した。 1890年、アメリカ北長老派教会のもう一人の重要人物... 続きをみる
-
-
清光緒6年(1880年)、北洋大臣李鴻章は大連湾軍港建設構想上奏文中に、初めて大連湾について言及した。 清光緒6年、李鴻章は北洋艦隊と軍港を設立する視察でこの入江(大連湾)に来たが、後に入江は広すぎるて、防衛によくなく、後に旅順を選んだ。ただそこに旅順を退路を守る海防砲台5基と陸上防衛砲台1基を建... 続きをみる
-
-
-
旅順三里橋にあるソ連軍烈士陵園の西南角の壁外近くに、日本人の合葬墓がある意味墓碑が墳墓の上に立つ、典型的な日本の墓葬習俗である。 墳墓は円形で、直径310センチメートル、高さ120センチメートル、墓碑の碑座は直径110センチメートル、高さ28センチメートル、碑本体は直径70センチメートル、碑高11... 続きをみる
-
1898年、ロシアが旅順大連を強制租借すると、旅順地区に三ヶ所の病院を建設したが、二ヶ所はロシア軍軍隊のもの、一ヶ所はロシア赤十字会のものであった。 軍隊病院は海軍病院と旅順混成野戦病院があり、軍隊病院は軍人の体を対象としたため、社会一般には解放されなかった。ロシア赤十字会病院は、ロシアと欧米人の... 続きをみる
-
乃木の柳樹房屯は旅順北部に位置し、百年前は、従数戸の家庭があるに過ぎない小村であったが、日露戦争で一挙に、史書に掲載された。 1904年に日露戦争が勃発すると、乃木希典(のぎまれすけ)の統帥する第三軍は旅順の包囲を担当し、司令部を柳樹房屯近く東の五間の藁葺家内に設置した。真ん中の家を主屋(しゅや)... 続きをみる
-
望台砲台は旅順市東北に位置して、海抜182メートルで、ロシア軍東部保衛戦の制高点(標高)である。清代にはこれを将軍台と呼び、ロシア軍は大鷹巣砲台と呼び、民間は両桿砲(二丁大砲)と俗称した。現在も2基の艦砲が山頂に残る。この2基の大砲はサンクトペテルブルクのオブホフ兵器工場1899年鋳造の150セン... 続きをみる
-
辛汪巡検司創寨碑 等級:一級文物 数量:1 件 時代:明 明洪武2年(1369年)、明朝は威海衛寨子村に辛汪寨巡検司を設立し、同時に設立したものには、赤山巡検司、温泉巡検司があった。 孫諒は辛汪寨巡検司首任巡検に任じ、陣内に兵百人が駐屯し、営塁を築き、塹壕を深くし、烽火台を建て斥候し、武装を整備す... 続きをみる
-
-
-
膠東地区は、山東半島東部に位置して、海浜は渤海、黄海に臨み、狭義(きょうぎ)には今日の煙台地区と威海地区を包括して、その内3/4の面積が煙台地区である。清初、膠東地区には登莱道が設置され、登州府、莱州府を管轄し、康熙39年(1700年)青州同は登莱道に合入して、登莱青道と改称された。 清代前期とは... 続きをみる
-